東京物語 感想
集団的自衛権の議論でときどき見かける『秋刀魚の味』を製作した小津安二郎監督。
その最人気作『東京物語』。
小津安二郎は独自の映像世界・映像美を持っている。
これは「小津調」と呼ばれる。
特徴としては以下のものが挙げられる。
・ロー・ポジションでとる
・カメラを固定してショット内の構図を変えない
・人物を相似形に画面内に配置する
・人物がカメラに向かってしゃべる
・クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとる
・常に標準レンズを用いる
・ワイプなどの映画の技法的なものを排する
・日本の伝統的な生活様式へのこだわり
・反復の多い独特のセリフまわし
・同じ俳優・女優のキャスティング
僕が気に入ったのは太字のとこ。
このおかげで、なんというか落ち着く。
時間の流れがすごくゆっくりになる。
この映画は家族愛モノと聞いていたが、いきなり家族の仲が険悪になる。
幸一と志げは、わざわざやってきた両親(周吉、とみ)を放ったらかして仕事をする。
子どもたちも自分の部屋を寝床に使われて迷惑そうにしてる。
だからこそ母(とみ)の「勇ちゃんがお医者さんになる頃、おばあちゃん、おるかのう……」がぐっとくるんだけど。
幸一に代わって両親を東京案内するのはなんと、弟の嫁(紀子)である。
ようやく、家族っぽい和やかな雰囲気になる。
こういう、ほぼ他人みたいな人との家族関係が大事なんだろうな。
親子だと近すぎてギスギスする。
そういえば、サザエさんでも波平が怒鳴ってもマスオさんが出てくると収まる。
寅さんもそうだ。
幸一は、両親を箱根の旅館に行かせる。
ここでの両親の会話がいい。
「そろそろ帰ろうか」
「お父さん。もう帰りたいんじゃないですか?」
「お前がじゃろう。お前が帰りたいんじゃろう?」
小津の特徴である反復セリフ。
以心伝心な感じが伝わってくる名シーンだ。
他にもこういったシーンがある。
「お前はどう思う?」
「お父さんはどうです?」
「やっぱり子供のほうがええのう……」
「そうですなあ」
は、同調の仕方が上手い。
「ええ方じゃわい」
「ええ方ですとも」
お互いわかり合ってる相槌は気持ちいい。
そして、母(とみ)の死。
親族が葬儀に駆けつけるも、すぐに帰ってしまう。
その薄情さを嘆く。
「子供って大きくなると、だんだん親から離れていくものじゃないかしら。
お姉様くらいになると、お姉様だけの生活があるのよ。
誰だってみんな、自分の生活が一番大事になってくるのよ」
「私そんな風になりたくない。
それじゃ親子なんて随分つまらない」
「そうねぇ。でも、皆そうなるんじゃないかしら」
「じゃ、お姉さんも?」
「ええ。なりたかないけど、やっぱりそうなっていくわよ」
「いやねぇ、世の中って」
「そう。嫌なことばっかり」
悲しい事実だが、視聴者は意外にもすんなりと受け入れられる。
これが小津調の力。
カメラワークもさることながら、反復と同調が上手い。
まるで河合隼雄先生を見ているかのよう。
「私、狡いんです。
いつもいつも昌二さん(亡くなった夫)のことばかり考えてるわけじゃないんです。
この頃思い出さない日さえあって……忘れてる日が多いんです。
私、いつまでもこのままじゃいられないような気もするんです。
このまま一人でいたら、一体どうなるんだろうって、夜中にふと考えたりすることがあるんです。
一日一日、何事もなく過ぎていくのが、とっても寂しいんです。
どこか心の隅で、何かを待ってるんです。
狡いんです」
家族との距離感ってのは難しい。
有事の時だけ近づいて、他の時は放っとくことが多い。
でもそれは寂しいことだ。
結局それは、大事にしてないということだからだ。
僕は、用がない時は家族とあまり喋らない。
以心伝心で何かが伝わった経験もない。
でも、それではいけないと思う。
僕は話をするとき、無意識に衝突を避けようとするが、きちんと正面から行くこともするべきだ。
そうしないと、本当の繋がりは得られない。
他にも、細かい点ですが、面白かったとこ
昔の観光バス、バスが動く度にみんな揺れる。ノリノリな観客みたいになってて面白い。
戦後の家はドアあけると「ジリリリリ」って音がするんだな
先生が童貞を殺す服着てる。
「墓に布団はきせられぬ」という言い回し。
「子供が思い通りに育たない」と不満を言ってるのに対し
「これは親の欲じゃ。欲張ったらキリがない」。
愛ではなく欲である、と。
ちなみに、僕がこの映画を見たのは、小津安二郎青春館に行ったからだ。
小津監督の青春時代の記録、面白かった。
小学校の勉強の記録見て、作文が名作小説並みの雰囲気出してて驚いた。
書き出しの
が異彩を放っている。
神輿の掛け声を聞いて
「素戔嗚尊の御気の荒い事を感じた」
なんて見事な感受性だ。
寝坊を「眠棒」と書いて筆を入れられてるのも面白い。
確かに、棒みたいに眠ってるもんね。
神楽の声、赤ちょうちん、涼風の音づれを聞いて「良い夜だ」なんて思うのも、僕の子供の頃の感性とは対極だと思った。
「良い夜だ」は今では老人っぽい台詞だ。
当時の子供も、今の老人と同じ心持ちだったのかな?
もし自分が作家デビューしたら、自分のこれまでの人生を読者に提示することになるかもしれない。
ノーベル文学賞とって記念館できたら絶対にそうなる。
その時、今の自分の幼少期を出したらどう思われるのだろう。
ひきこもってゲームばっかの人生見て「だから想像力が豊かなのか」と思われるのか?
僕の過去の成績表を出して、国語と図工の低評価を見られたら「日本の教育は想像力を評価していない」とか言われるのだろうか?
タイトルと名前と先生のコメント「どうしたの?」しか書いてない感想文を展示してもそう思われるのかな。
もしそうなら、作家になりやすい人生なんてないのかもしれない。
どう評価されるかなんて、見せてみないと意外とわからないものだ。
たとえ予想通りだとしても、よく観察すると自分の予想とは違うことだってある。
そこから次の行動が生まれることもある。
やらない内から悩んだり、過去を振り返ったりしてもあまり意味はない。
できることからやろう。
そんなことを思った。