高校野球におけるフェアプレーについて
今年の高校野球では、花巻東が「サイン盗み」疑惑をかけられ、ネット上で議論になった。
サインは、サドルや心を盗むとは違い、盗むとはどういうことかわかっておらず、扱いが難しく、議論は平行線だ。
多く散見された意見は「ルールだから守るべき(ランナーは打者に対してサインを出してはいけないというルールがある)」「俺の頃はサイン盗みOKだったぞ」「こういったルールが高校野球をつまらなくしている」という意見だ。
その中でも一際わたしの目を引いたのは「サイン盗みを行う機会は平等にあるのだからフェアだ」という意見である(わたしの意見だ)。
しかし、「フェア」というのは難しい。感覚的にはわかるが、「フェアとは何か」と聞かれると詰まってしまう。
そういう点では「生きる意味とは何か」「なんのために仕事をしているのか」という問いに通じるものがある。
「高校野球におけるフェアプレーとは何か」とは、哲学的な問いなのかもしれない。
ここでは、フェアプレーについて、私の倫理観を元に考えてみよう。
もっと立派な人の倫理観に基づいてれば良かったが、仕方ない。電車に乗っているとき、女性の荷物がぶつかったときはにこやかに対応し、中年男の荷物の時には睨みを利かすわたしの倫理観を元にしてみよう。
問題になるのは、何が「フェア」かだ。
たとえば、テストにおいて、事前に問題を知っていた場合はフェアでない。
これは、テストの目的である「学力を計る」ことを妨害する。
サイン盗みに当てはめると、高校野球の目的を妨害するかどうかが争点になる。
しかし、高校野球憲章には「フェアプレー精神の育成」と書かれているが、具体的には書かれていない。
本屋ですら「万引きは犯罪です」と書いているのだから、野球憲章にも書いてほしいものだ。
また、「盗む」という言葉が悪いとも考えられる。
盗作や不正ダウンロードが社会問題化する中、「盗む」という言葉のイメージは悪くなる一方だ。
「サイン寄付」といえば多少イメージアップになるだろう。
だが、度を越して「サインは地球を救う」とすると一気に悪化する。
しかし、先程のテストで、全員が事前に問題を知っていた場合はどうだろう。
この場合、テストの目的である「学力を計る」ことを妨害することにはならず、フェアとして扱われる。
ならば、やはり全員にサイン盗みの機会を与えれば公平なのではないか?
わたしは以上の理論をTwitterで提唱したところ「ルールをちゃんと読め」と一蹴された。野球界というのは、考えよりもルールが優先される社会のようだ。しかし、その意見も別のツイートで批判されていた。自体は増々混乱していった。
以上のことから、この問題の解決には程遠いことがわかった。
いっその事、高校野球で行われるプレーを「フェアプレー」だと定義すれば、全ての問題は解決するだろう。